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小さな願い事

 

 春の風が吹き抜けていた。木々には新しい花が芽吹き始めていた。桜の花が見る者の目を楽しませるというのはまだまだ早いけれど、春は確かにそこまで来ていた。

「やっと、だな」

 朋也はつぶやいて空を見上げた。傾きかけた夕日に染められた世界が広がっていた。その赤さに目を細める。

「冬が終わる、か」

 朋也は視線を地面と平行に戻してつぶやいた。

 彼は冬が嫌いではなかったが、けれども冬が去ることは喜ぶべきことだった。

 たったひとりアパートで待っている彼女のことを思えば、そのほうがずっといい――いくら空調があるとはいえ、この冬の寒さは例年以上に厳しく、彼女の体力を蝕んでしまっていた。

 今日は寒さが戻ってきてはいたが、それも数日だけの話だった。天気予報によれば、来週には本当に春がやって来る。

 だから、だろうか。

 足取りは軽いとまでは言えなくても、重いものでは決してなかった。彼のそばにいてくれる大切な人の、懸命に笑ってくれるその笑顔が見たかった。

 慣れない仕事、そして少ない稼ぎ。それでも朋也は以前に比べれば充実していると言えなくもない。一年前、彼があるいは一生この仕事でもいいのかもしれないと信じたその職場から離れてしまったけれど、それでも彼にはまだ守るべきものがあった。失ってはならないものがあった。数多くの失ってしまったものと引き換えに、辛うじて残されたもの。

 その価値を朋也はだれよりも知っていた。そして誰にも譲りたくはなかった。彼女がそれを切望したとしても、できることなら、ずっと彼のそばにいてほしい。

「……わがままなのかもな」

 呟いて道を歩いた。彼女が夢見ていた世界とは、この世界はもう異なってしまったのだろうか。ふとそう思ってしまう。この世界は、あの時から色彩を乏しくさせていた。

「……」

 朋也は呟いて帰るべき場所へ視線を向けた。この見慣れない町並み――それでも一年も暮らせば慣れてしまうけれど――の中にあって、ただひとつ朋也が心安らげる場所。

 彼が失ってしまった世界の、最後の安寧の場所。

 朋也は小さく息をもらした。彼の着ているところどころ薄汚れた作業服を見降ろした。

 あの町を逃れて、足掻こうとした結果だった。その足掻きに、どこまで意味があるのか。

 この町は――

 朋也は思い浮かべかけた言葉をゆっくりと押しつぶした。それでもわずかな残滓が胸の奥底に、まるで泥のように横たわることを自覚してしまう。

 思い出さないようにしながら、それでも彼が以前住んでいた町でも何度も思っていたその言葉はどうしても、彼の心を淀ませてしまうのかもしれない。

 かぶりを振って、どうにか追い出す。

 ――この町は、嫌いだ――そんな言葉を。

 

 

 

 

 ゆっくりと階段を上がる。小さなアパートだった。木造2階建て、2人で暮らすには十分だが、という程度の広さでしかない部屋だった。

 部屋の入り口右側には、「岡崎」という表札が掲げられていた。それは朋也が決心をした結果だった。それが何かに追われた結果だとしても、あるいは彼が唯一なしえるこの世界への抵抗だとしても、少なくとも彼女は、喜んでくれた。

 朋也くんの家族になれて嬉しいですっ、そう言って笑ってくれたことを思い出す。

 部屋からは明かりが漏れていた。廊下に置かれた室外機からは鈍い音と共に、冷えた空気が吐き出されていた。けれども、そこに誰かがいるということを示すものはただそれだけだった。

 他の部屋からは、回されている換気扇から漏れ出る晩御飯のにおいが漂ってきていたが、この部屋からはそれも無かった。

 周囲から時折聞こえる賑やかな声も、この部屋は無縁だった。

 ドアノブをしっかりと握る。ゆっくりと扉を開けた。

 そこから見れば、やはり誰もいないように思えた。物音もせず、ただ静かに時が流れるだけの部屋。

 この瞬間が朋也は嫌いだった。まるでこの世界にたった一人残されてしまったような錯覚を覚えてしまうこの瞬間が、いつも。

 本当は部屋にすぐに上がりこみ、大切な彼女を抱きしめたかった。その存在が確かにそこにあって、朋也を見つめてくれているのだと確かめたかった。

 けれどもその衝動を抑えて、部屋の中に体を入れると、ゆっくりと扉を閉めた。

 どれほどゆっくり閉めようと、さび付いた蝶番が小さな悲鳴を上げてしまう。

「……朋也、くん?」

 その音に気づいたように、布団で寝ていたはずの小さな影が体を起こすがわかる。

「起こしてしまったな、悪い」

 朋也は外の世界とこの世界とを断絶させるかのようにしっかりと扉を閉めて、鍵をかけた。

 それからもう一度室内を見やった。

 小さな玄関からでさえ、その部屋を一望できた。キッチンと呼ぶことさえ躊躇いを覚える水回り、その奥に見えるトイレ、6畳ほどの居間、そしてやや小さめの広さの部屋がもうひとつ。その奥を見れば小さな風呂もあった。

 部屋の隅に重ねられただんご大家族。あの町で暮らしていたときよりもひとつ数を増やしていた。それだけがかつての世界との唯一のつながりのようにさえ思えた。

 これが朋也の世界だった。大切なものを守るために必要な世界だった。わずかに奥の歯をかみ締める。それがもうわずかなものでしかないことが、あるいは朋也にとってはより一層目の前にいる彼女に申し訳なく思う一因なのかもしれない。そしておそらくは、こんなにも彼女を必要としている――彼女無しでは生きていけないと思い込むほどに――彼自身への苛立ちでもあった。

 だが、そんなことはおくびに出さずに、朋也は靴を脱ごうと一歩足を進めた。

「あの、お帰りなさいっ」

 そのとき、布団から彼女が立ち上がり、ゆっくりとこちらへと向かおうとしていた。

 無理をしなくていいんだ、そういいかけたとき、朋也の目の前で彼女の体が崩れ落ちる。

「ケホっ! ケホっ!」

 布団から数歩歩いたところで彼女はうずくまっていた。片手で口を軽く押さえ、もう片手を胸に当て、苦しげに喘ぐ彼女のそばにあわてて駆け寄り、その背中を優しく撫で摩る。

「ご、ごめんなさい……朋也くん」

 朋也の腕の中で彼女は息を喘がせながら、それでも申し訳なさそうに言った。

「謝ることなんてない、渚」

 朋也は渚の体を抱きしめた。温かかった。愛おしいその温もりを思いっきり抱きしめたくなる衝動をこらえ、渚を見つめた。多少荒くとも呼吸の音が聞こえていた。

 渚は腕の中にいた。その命の鼓動こそが朋也が朋也たりえているかけがえのない世界の中心だった。

「今日は、どうだった……?」

「いつも通り……です」

 申し訳なさそうに渚は言って、もう一度ごめんなさい、と口にした。

「晩御飯、また作れませんでした……朋也くんが、わたしの手料理が好きだって知ってるのに」

「いいよ、渚」

 ようやく呼吸を落ち着かせた彼女を布団に戻し横たわらせながら、朋也は彼女の頭をやさしくなでた。

 その髪の感触はいつも通りだった。その細やかな感触が朋也の手になじむ。なじむほどにその頭をなでてきた、ということなのだろうか。それとも、それほどまでに渚の存在を確認しなければならないほど、ということなのだろうか。

 朋也は渚の髪を撫でる手の動きを止めて、彼女の少し生気のない顔を見つめた。

「ありがとうな、渚。俺のそばにいてくれて」

 朋也の突然の言葉に、渚は少しだけ朋也をじっと見つめた。

「そんなの、あたりまえです、朋也くん」

 渚は柔らかい笑みを浮かべて朋也を見つめた。

「わたしは朋也くんのそばにいるって決めたんです、朋也くんが笑っていられるようにって。あの町から出てきてしまいましたけど、それでもわたしは朋也くんが好きですから」

「……ありがとう」

 朋也は渚の上に影を落とすと、その唇にやさしくキスをした。

 その唇の感触に彼女への想いを自覚し、それからゆっくりと唇を離した。

「渚がいてくれるから、俺はどうにかやっていられるんだ。あいつの……あんな事件があってから、ずっと」

 苦い記憶がよみがえる。父親の逮捕、決まりかけていた転職の失敗、挫折、そしてあの町から引っ越してしまったこと。

 朋也は奥歯がきしみを上げるほどに歯を食いしばると、心配そうに見上げてくる渚から視線をはずし、渚に気づかれないように息を吐く。

「――渚、晩御飯食べれるか?」

「は、はい……」

 申し訳なさそうに渚は返事をした。どう見ても食欲のなさそうな彼女だったけれど、それでもまったく何も食べないというわけにもいかなかった。

「もうおかゆは飽きただろう? だから、今日は雑炊にしてみようと思うんだ……まあ、似たようなものだけどな」

 朋也はそう言ってゆっくりと立ち上がった。

「いつもレトルトで味気ないだろ? だからさ、今日は俺が作るよ」

「で、でも。朋也くんも疲れてますからっ」

「気にしないでくれ、渚。俺にできることなんて、この程度なんだから」

「そ、そんなことないですっ。朋也くん、わたしのためにがんばってくれてます。わたしがもっと元気だったら、一緒に頑張ることができるのに……」

「俺はさ、渚」

 朋也は静かに、渚の髪を撫でた。

「渚が好きだから。だからこれくらい、どうということはないんだ」

 それがある意味において詭弁だということを、朋也自身分かっていた。分かってはいたが、それ以外に何かを言うことはできそうにもなかった。少なくとも、渚への想いと言うものが嘘ではないのだから。

「期待してれくれよ」

「……はいっ」

 渚は楽しげに笑ってくれた。渚に背を向け、台所に向かう。

 料理と言っても、大したことをするわけでもない。いくつかの食材を包丁で食べやすい大きさに切り、炊飯器からご飯を取り出し、玉子を用意する。その程度だった。

 ふと、義理の母の笑顔が思い浮かんだ。そして、義理の父の、しかめっ面も。

 渚の卒業を待って、あの町を出ていくことを渚の両親に告げたとき、ふたりは少なからず驚いていた。

 けれども朋也の意思、何よりも渚の意思が固いことを知って、必要以上に翻意を迫ってはこなかった。

 けれど、あの町にいたならば、きっとあのふたりは渚のそばにいてくれただろう。あるいは、彼女の実家に戻っていたかもしれない。あの懐かしき――彼にとっても――古河パンに。

 ふと、歌が聞こえてきた。

「――だんご、だんご、だんご、だんご、だんご大家族――」

 小さな、本当に小さな歌声。あの町にいたときよりもずいぶんと掠れてしまったように思う歌声。

 それでも、本当に楽しげに、渚は歌っていた。

 朋也は背中を振りかえることもできずに、ただ台所に向かった。

 父親の逮捕の後、絶望感に苛まれながら渚と向き合った、あの日のことを思い出した。

『俺さえいればいいって言ってくれないのか?』

 そう言った時のことを、困ったような、寂しそうな彼女が視線を伏せがちに、躊躇いの言葉を口にした時のことを思い出す。

 それはきっと卑怯な言葉だったのだろう。渚には頷く以外の選択肢を持っていなかった。持っていてとしても、それを見せることさえしなかった。

 あの町に残るべきだったのかもしれない。せめて渚だけでも、あの町に。

 そうすれば、渚はきっと今頃、笑っていられたのかもしれない。温かい家族の強いきずなに守られながら。朋也は結局のところ、彼女に何をなしえたのだろうか。

『幸せにする』

 そう誓ったのではなかったか。あの日の渚に、すべての想いを吐露したときに。それがあるいは、ただ逃げようとする自らへの欺瞞的な意味で口にしたとしても。

 そうしながらも手は動かしていた。材料はすでに切り終えていた。

 鍋の中に、すべての材料を入れてだし汁を加え、火をかける。換気扇から下に垂れ下がる紐を引くと、それは使い古されたことへの抗議を示すように、耳障りな音を立てた。

 まだ、歌声は続いていた。楽しげに歌う声。もし――もし俺たちの間に子供がいたならば、もしかすれば同じように歌っていたのだろうか。

 そういえば渚がいつだったか、子供が生まれたら、汐、という名前をつけたい、と言っていたことを思い出す。

 きっと渚の子供ならば可愛いのだろう、とそんなことを考えて、苦笑いと言うには余りに翳った表情でかぶりを振った。

 そんな当たり前の幸せさえも、俺は渚に――。

 視線を渚へと向けた。そしてゆっくりと彼女の元へ歩み寄る。

「……」

 不思議そうに渚がこちらへと視線を向けて、歌を止めた。

「朋也くん……?」

 上体を起こして、渚が名前を呼んだ。

「渚……」

 彼女のすぐ傍に座り込み、渚の顔を正面から見つめた。出会った頃と変わらない大切な人の笑顔。

「……ごめんな、渚」

「朋也……くん?」

「あのとき、言ったのにな……幸せにするって。それは別の街でもできるって」

 なのに、と朋也は渚から視線を外した。彼女のどこまでも透き通るような瞳が、全く別の色に――同情や憐憫の色に染まることを恐れてしまったかのように。彼女がそんなことをするはずがないと知っていても。

「朋也くん」

 静かにそっと、彼の名前をもう一度口にした。

「わたしは、十分に幸せにしてもらってます。朋也くんといられて幸せですから」

 渚は笑って、朋也の力なく項垂れている両手をそっと握った。その感触に、朋也は愛する人をじっと見つめた。

「もう少しすれば暖かくなります。そうすれば、わたしの体調も良くなって、一緒にいろんなところに行けると思います」

 柔らかく、渚は笑った。

「一緒にお花見もしましょう。お弁当を作って、桜の木々の下で。きっときっと、楽しいです」

 その言葉を、朋也は否定できなかった。渚と眺める桜の木々。きっと楽しい時間。

 ――けれど。

 たったふたりだけの花見。あの町にいたならば、もっと賑やかな時間を過ごせたはずだった。少なくとも、彼女の両親は呼ばれてもいないのにやって来るに違いなかった。

「……いつか」

 いつか帰れるだろうか、あの町に。

 朋也は言いかけて、口を閉ざした。口にしてしまえば、それが急速に陳腐なただの願い事に堕するように思えてならなかったからだった。そしてそうするということの意味が分からないほど、幼いままではいられないのも事実だった。

 きっと、俺はあの町を忘れられずにいる。戻りたいと心のどこかで願っている。それが不可能な事が分かっていても。思わずため息をつきそうになる。

 そのとき、もう一度渚の声が聞こえてきた。少しか細いけれど、柔らかい声だった。

「元気を出してください、朋也くん。わたしたちは家族です。今は二人だけの家族ですけど、いつか二人が三人に、もっともっとたくさん増えるかもしれません。だんご大家族みたいに」

「だんご大家族、みたいに?」

「はいっ」

 渚は楽しげに笑って、目を細めた。その仕草が朋也の心の奥底に残っている濁った思いを、表層だけであっても確かに洗い流してくれる。先ほど考えたような子供と二人で歌を歌う渚を想像したからかもしれない。

「だんご大家族は、確か100人家族だったよな」

「家族は沢山いたほうが、きっと楽しいですから」

「……そうだな、確かに」

 少ないよりは多い方がいい。さすがに100人は無茶だが。

 朋也はわざとらしく嘆息気味に言って、渚の頭を撫でた。

「ありがとうな、渚。お前がいてくれて、本当に良かった」

「わたしは朋也くんの家族です。ですから、絶対にどこにも行かないです。何があっても、朋也くんの隣にいます」

 ごく当たり前のことのように、渚は柔らかく笑った。

「渚……」

 朋也は思わず彼女を抱きしめた。さすがに力を込めることはしなかったけれど、優しく伝わって来る彼女の温もりがどうしようもなく愛おしく、渚の髪に手を伸ばし、その感触を確かめた。

 渚の手が、朋也の背中にまわされる。そして耳元で、朋也くん、と優しい響きを感じた。

 それだけで十分のように思えた。

 渚から体を離す。

 その間際に、彼女の唇にそっと自らの唇を合わせた。

 そして、ありがとう、ともう一度そう言った。

 この大切な宝物を、守りたいと改めて思った。そしていつか、いつの日か……あの町に戻ることができたなら。それが単なる願い事ではなく――今はまだ、小さな希望、そう呼ぶことさえ憚るべきことかもしれないけれど。

「いつか一緒にさ……桜を見ような」

 小さな、小さな願い事だったかもしれない。けれど、と朋也は思う。

 叶うならば、その新しい世界の色を見てみたかった。あのころに垣間見たはずの、今となってはもう現実か幻かさえ不明瞭ではあったけれど、そんな世界がもう一度訪れることを期待してもいいのかもしれない。

「二人だけじゃない家族でさ」

「はいっ」

 そんな未来を想像しているのだろう、渚は楽しげに笑った。

 いつか、それが現実になるだろうか。すべてを手に入れられないにしろ、ほんの一部でも、この手に、渚と共に。

 渚ともう一度唇を合わせた。

 小さな願い事が、いつか叶う日が来ればいいと、思いながら。

 

 

 

 

 


あとがき

 

 

 クロイ≠レイ製作所様では、はじめましてですね。熊野日置と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

 ここまで読んで頂きましてありがとうございます。

 お分かりになったかどうかわかりませんが、ゲームにおける、アフターストーリーのバッドエンド後、という設定です。

 もし感想などありましたら、頂けますと幸いです。

 

 最後に、このようなSSを掲載して下さったクロイ≠レイさんに心より感謝いたします。

 

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